2009年7月16日木曜日

博多復興のシンボル博多べい

16世紀の博多の町は、大友と島津の戦争によって焦土と化していた。
これは、島津が撤退の際に町中に火を放ったためで、少しずつ復興していたものを島津は完全に焼き払ってしまった。
その時、朝鮮遠征を考えていた太閤秀吉は、博多を朝鮮出兵の基地にするべく、博多の再興をおこなった。
この秀吉の命でおこなわれた復興計画を「博多町割り」というのだそうな。
「博多町割り」は数年がかりでおこなわれ、博多の豪商宅や寺院の周囲を取り囲んだ高い土塀には、焼けた後の石や瓦が使われ「博多練り塀」「博多八丁塀」などと称された。
これが「博多べい」。写真の博多べいは、櫛田神社のものである。
確かに石や瓦が埋め込まれている。400年以上前の戦の名残りをみていると...まっことリアルである。
当時、この辺りは実際にはどのような風景であったろうか。どのような人たちが活躍していたのだろうか。庶民はどのような生活を送っていたのだろうか。
思いっきり想像力を働かせてしまう。歴史ってホント興味深い。

0 件のコメント: